母になる為に
私は八年前戦線から離脱した。
仲間達は今でも己が剣を手にきっと戦いに明け暮れているのだろう。
あの時、あの日から、『私』の時間は止まったままだ。
止まったまま薄れることなく、激しく燃ゆることもなく、ただあの時のまま今もこの片隅に黒く暗く、だけれども惹かれるものを残したシミとなって存在している。
『私』は生き様だった、『私』は死に様であるはずだった。
それが、私は今、こんな幸せであっていいのだろうか。
いや私は『私』をこのままにしておくのが、酷く怖いのだ。
幸せであることにではなく、『私』をあそこに残して、換言するならば新たな生き様を見出して、かつての生き様を簡単に捨てられる私が、酷く怖く、醜悪に見えて。
かたりと音がして振り返る。
そこには息子が目を擦りながらたっていた。
私の新しい生き様、幸せの形。
「ママ、どうしたの.....?」
それはこんな夜遅くに電気もつけず、月明かりに照らされて一人でいたことにだろうか。
私は息子の頭を優しく撫でながら笑ってみせた。
「いま寝ようと思ってたのよ。レーヴは、怖い夢でも見ちゃったのかな〜?」
「うん、ママが、ママの顔が真っ黒でね、真っ暗な場所に立っててね、このままじゃママ、どっかにいっちゃうと思って....」
容易に想像できたとも、何故ならその夢は何度だって見たことがある。
真っ赤な手は、何度洗っても落ちないのだ。
どんなにこすっても落ちないそれをみて、私はそれでもなお刀を握るのだ。
「ママ?」
「.....大丈夫、そういう時はパパを想像しながら寝るの。パパは、うん、強いんだから」
そういって私は彼に良く似た真っ赤な髪の上から額にキスをした。
安心したのか、息子はへにゃりと笑って駆け足で部屋に帰っていく。
見届けてから、月明かりに照らされているベランダにでる。
私はもう一度思考の海に浸る。
我が主は八年前に言った。
八年待てと、八年は何もせずに傍観しろと。
そういってから八年経とうとしている。
天界はどうなっただろうか、私の部下たちは、レイトは、お兄ちゃんは、今でも『私』の影を見ているのだろうか。
魔界は酷く静かで、本当に戦争などおこっているのだろうか。
八年、私は幸せに浸かったとも。
結婚し子供を二人も授かった、毎日輝いていて新鮮で楽しくて、ああなるほど、普通とはこんなにも幸せなのかと涙した。
私だけ、私だけが、一人逃げ出してきて。
一人だけのうのうと幸せに浸っていいのか、一人だけ死から遠のいて笑っていていいのか。
私の部下は、同胞は、お兄ちゃんは、死地に赴いているというのに?
最後に刀を握ったのは、今でも思い出せるか。
怖いと思ってしまった。
刀が握れないのが、いや生か死か、味わうことができないことに。
手が赤くないことに。
「ああ、生粋の、兵器だったのだなあ...」
今の幸せを失うことも怖い、あの団欒に自分が居ないと思うと、子供たちを思うと、怖いとも。
でも私は最初「戦士」たれと生まれた、それが余りにも長すぎたのだ。
私は『私』でないために、私を殺し、再び『私』が燃ゆることで、手に入る。
私は『私』を殺しにいかなければならない。
幸せに浸かるのは帰ってからできるだろう。
何より仲間が、待ってる。
私はベランダの窓は開けたまま、自分の部屋のドアを開ける。
部屋の奥のクローゼットの奥、埃をかぶった得物とあの時の服を手に部屋をあとにしようと思い、ベッドの横で立ち止まる。
彼が、私を救ってくれた愛しい彼が。
私は引き返しそうになった、心弱くも挫けそうになった。
私は無理矢理部屋あとにする。
玄関では音が大きく子供たちが目覚めてしまうと思い、ベランダから行くことする。
私はブーツを玄関から出してベランダで履き、ワンピースを脱ぎ捨て、動きやすいピッタリとした服をきる。
鎧は魔力で編むから今でなくて平気だ、最後に刀を抜こうとする。
八年手入れをしなければ錆びるいうもの、全く抜けない。
だが刀は私の魔力が含まれている。
恐らく魔力を通せばあの時の輝きをとり戻すだろう。
「起きて、『六花』」
そうして刀に魔力を通すと月のひかりを浴びてより一層と輝きを放つ。
抜刀するとするりと滑らかに抜け、待っていたと言わんばかりに白く輝いていて眩しい。
ああ、思わず口の端があがってしまった。
私は鞘に収め、腰の剣帯にそれをさす。
そしてまさに翼を広げて飛び立とうと思っていた時に、一番聞きたくなかった声がした。
「行くのか」
ピタリと時間が止まった。
なんて言えばいい、なんて笑えばいい、どう笑えば、許される。
私は一気に冷や汗が額に浮き出た。
振り返れなかった、顔を見るのが怖かった、嫌われたくない、結局この道を辿っていくのかと蔑まれたくない。
彼だけには、彼だけの私でありたい。
「あ、う、私」
言葉がうまく形をなしてくれない。
もどかしい、嫌われたくない嫌われたくない。
ならば行くことなどやめてしまえばいいものを。
「......あんな大きな音出したら、子供たちが起きる」
そういって彼は椅子に腰かけた音がした。
大きな音など出した覚えはない、なんの話だろうか。
「ドアノブ、壊したろ」
彼は少し小さなため息をついてそういった。
恐らく無理矢理部屋をあとにしようとしたために慌ててしまったのだろうか、力がはいってしまったのだろうか、気づかなかった。
私は適当に返事をして、一生懸命言い訳を探した。
嫌われないような、綺麗な言い訳はなんだろう。
頭の中が嫌われたくないの文字でうまっていっぱいになる。
「いってらっしゃい」
「え.....?」
私は思わず振り替えってしまった。
そこでは案の定彼が椅子に腰かけていて、こちらを優しく見ていた。
いつもの優しい瞳で私のことを見ていた。
だからそんな彼を見て、私は言葉がまとまってもいないのに一人走り出す。
「私、耐えられなかったの、その、私だけ幸せに暮らして、生きてることが」
彼は私の覚束無い言葉に優しく相槌をうって、静かに聞いてくれた。
するするとでる言葉が、綺麗じゃなくて、嫌われるかもしれないと思うと自然と涙が溜まる。
「だから、いかなきゃ、私.......」
彼は最後まで私の話を聞いて最後まで私の目を見ていた。
全部見ている、きっと頭の奥まで。
彼はそれを踏まえた上で、こう言った。
「ん、待ってる」
「........いいの?」
「行かないの」
私は首をぶんぶんと横にふる。
ここまできて意志を変えるわけにはいかない。
私はそれでも泣きそうな目で彼をみた。
「じゃあ、いってらっしゃい」
彼の多くはない口数で、もう一度言った。
全部お見通しだ、嫌われたくないことも押し通したい思いがあることも。
それを踏まえて彼はそれを言っている。
私は落ちそうになる涙をゴシゴシと服の裾でふいて彼をしっかりと焼き付ける。
「うん、いってきます、ザギ」