失楽園 第一章 第二節
それは圧倒的な絶望だった。
例えるならば目の前で巨人が見下ろしているが如く、敵は高く威圧的であったのだ。
目が掠れているのはきっと出血によるものだと信じたい。
初めて抗いようのない形をした「死」にであったのだから。
「俺も暇ではない、名乗ったからにはきっちりと始末させて貰う」
巨人はどうなっているのか、翼をまるで空気に溶けていくように消した。
おもむろに胸ポケットから煙草の箱を取り出し、一服し始めた。
「死刑宣告.....だって....ことかよ」
俺はポツリと言葉を漏らすと自然と口の端が釣り上がるのを感じた。
口の中の血を奴のブーツに吐きつけ、震える手で愛剣を手にとった。
「ふうぅ........やはり親父の真似事で煙草なぞ吸うものではないな」
そして剣を杖にノロノロと立ち上がる。
ああ、目の前の「死」は酷く穏やかで優しく感じる、委ねてしまえばなんて楽なのだろうか。
だが、思い出せ。
あの日の憎悪は今も腹で煮えているだろう。
俺が身を委ねたのは天使ではない。
「....いい目をする、惜しいものだ」
彼は俺を見ると咥えていた煙草を吐き捨て、コートの内側からなんてことはない短剣を取り出した。
「安心しろ。魂は循環する、お前の肉体が死しても魂は天にて回収されまた新たな生を得る。それはこの世界の摂理だ、それは平等でなければならない」
短剣を煉瓦造りの道路に突き刺し、片膝をついて手を合わせた。
そうそれはまるで、教会の信者共が神に祈りを日がな一日捧げるかのような。
それがこの上なく頭にきた。
「貴様っ.....馬鹿に、するなああああああああああああああッ!!!!!!」
俺は負傷していることなぞ気にもとめず、足が地面を抉るほど、奴目がけて突進した。
『汝に太陽神アポロンと天空神ゼウスの御加護があらんことを』
その突撃していく中で見た奴の顔は、笑っていた。
勝利の笑み、絶対なる自信から来るあの表情で俺は剣の動きを鈍らせた。
『寛大たる御心使いにて彼の御霊を救い給え』
そして奴は凄まじい速さで短剣を手に取り、俺の太刀筋を滑らせた。
行き場のない剣は地面を抉る。
『我が主に願い上げ奉り候。我に力を、我に名を与え給え』
直ぐに体制を立て直し、距離を置くため後ろに飛び退く。
そして俺はこの奴の言葉に違和感を覚えた、これは俺を馬鹿にするためではない、馬鹿にするには長い祈りだ、だとするならばこれは。
「詠唱かッ.......!!」
すぐさま俺は下段に剣を構え奴を斬りつける、だがどうしたものか光の霧が俺の剣戟を吸い込んだ。
『我が名はインセット、天名をミカエル。汝、我が天秤にかけられたり』
光の霧が俺にまとわりつき離れない、遂には光は増していき視界を埋めつくした。
そこは白い世界だった。
どこを見ても白、白、白。
そこには何もなかった、生き物が存在する余儀はない「無」の境地。
あるいは彼岸というべき場所だった。
「客人は、初めてかな」
背後からの声に俺はすぐさま剣を構えた。
先程まで相手にしていた天使がいないのだ。
「なに、君に危害は加えない。というより加えられない」
声を辿り見た光景に、息を飲んだ。
そこには立派な王座があり、一人の青年が腰掛けている。
だが青年は鎖に縛りつけられ、鎖に貫かれていた、その鎖は王座にへばりつき、地面から生える茨のようだ。
「警戒しないでくれ、なんたって八年ぶりの人だ」
彼を縛る鎖は何か魔力が脈打っている、恐らく並のものでは壊せない。
俺はこの状況をみて、相手が攻撃する手段がないと判断し剣を下ろした。
「ありがとう、どうやら君は舞い込んでしまっただけらしい」
「.....そのようだな、お前は何者なんだ」
「俺は王さ、いや王になるはずだったと言うべきか。生きてはいるが生きていないというのかな、まあこのとうりさ」
彼は唯一動く手を上に動かし、これは参ったという顔をした。
生死をかけているはずなのに、まるで他人事のようだ、仕方がないと。
「いずれ俺と君は出逢うだろう、それは必然でありながら偶然の結果だ。君がそうであるというならば、俺は俺でもってして振る舞おう」
「どういうことだ」
「王としてではなく味方として君を待とう、なに、直ぐにわかるさ」
「......お前、意味がわからん」
「はははっ、なに、ちょっとしたクイズのようなものさ。戯れだと思って聴き逃してくれ」
彼は上を見上げて微笑んだ、輝く何かがあるように目を細める。
「お前、何故この状況で笑える。話ぶりから好きでこのようになったわけでもあるまい、だとしたら他人によって作り出されたこの状況、憎悪の欠片もないその表情、いったい何をもってして笑える、いったい何を思える」
ゆっくりと戻された顔は本当に笑っていた、作り物でも張り付いたものでもない。
「君は優しいな、ならば俺も問おう。貴殿は何をもってして俺を気にかける。初対面であり右も左もわからぬはずのこの状況で、得体もしれぬこの俺を気にかける余裕があると?そして忘れたか、貴殿は何と相対していたかを。思う所があるならば戻るがいい、待っているのは『死』ではない『光』だ。貴殿は未だ無知である、この状況わからぬならば貴殿の生はそこまでだ」
そうして彼は、いや奴は俺に微笑んだ。
同情ではない、憐れみではない、慈愛ではない、友のように。
「お前は.....誰だ...?」
「言っただろ?君の味方さ」
「違う!!俺は一言も敵と相対していたなど口にしていない!!!!」
まるで、まるでそれは予知いや千里の目、神のようではないか。
「戻るがいい人間よ、お前はいずれ辿りつくさ」
「待てっ!!!!」
俺は剣を構えて駆け出した、王だというならばそれは、いや、奴はなるはずだったと言った、それはもしかして。
そして視界は光に埋め尽くされた、その前に白い布がふわりとはためいた気がした。
目が覚めた時には地面がそこにあった。
俺はすぐ様手を地面につき立ち上がる、今の状況は、セラフィムはどうなった。
「ほう、辿りついて啓示を受けたか。大したものだ」
奴は目の前でただ優しく俺を見ていただけだった、この状態の俺に攻撃するでもなく、ただ待っていた。
すぐ手前に刺さる愛剣を手に取り、剣を構えた。
背中がじくりと痛み、熱い何かが流れ落ちるが気にしてはいられない。
そう、俺が相対しているのは上位階級第一位熾天使、セラフィム。
俺が今朝戦闘したのは中位階級第三位能天使パワーズ、奴らは一体につき一連隊壊滅させる力があると言われているが、目の前の奴はそんなものではない。
たった一体で一軍を殲滅できるという、冗談でも笑えたものではない。
ああでも、熾天使が下界に降りてきたのは今回が初めてだろう、その仮説が現実だと証明出来た者はいないはずだ。
冗談であってくれと願うばかりだ。
全く大昔の人間は、何故こんな戦力差が見え透いた戦争をふっかけたのだろうか。
「今回は君を見逃そう、仮面の。下界に降りたのも本当はこの帝国の軍を壊滅させるためでないしなあ」
「貴様、それは情けか!!我が誇りを侮辱すると!?」
「ああそうだ情けをかけている。若き戦士よ、君はまだこの戦争の裏を知らない」
そうして奴は身を翻した。
跳躍すると同時に翼を展開し、爆風を残してどこかに飛んでいった。
緊張の糸がぷつりと切れ、急激に訪れる傷の痛みに顔を歪ませる。
いつの間にか音もしないほどに人はいなかった、あいつはきっと本部に応援要請でもしに走っただろうか。
剣を鞘に収めどかりと地面に座りこんだ。
ぱたぱたと滴る血が生きているのだと実感できるほど赤い。
俺は生かされた、奴の蹴りを食らえばわかる。
あれは加減をされていたのだ、あいつは殺そうと思えば一捻りで俺の首を取れただろう。
いや、今回生きていて良かったのかもしれない、何故なら得られた情報も少なくない。
奴は「ミカエル」だと言った。
ミカエル、天使を総括し天界軍のトップにたつ天使だ。
これを生きて騎士長に届けなければいけない、ああでもまだ少し、座っていても、怒られないだろう。
朦朧とする意識の中、仲間の足の群れの中に懐かしい青いドレスを来た少女が立っている気がした。