失楽園 第一章 第五節
白い息をほうと口から吐き出す。
目の前で揺れる蝋燭の灯火だけが熱を放っている、すべての物は時が止まったように冷たく暗い。
先日のアルブム卿の件から数日、我が団は緊張状態が続いていた。
何時までたっても終わることない上層部の会議に皆嫌気が刺したのだろう。
俺は雪空の下、当番制の団の門で見張りを交代したばかりであった。
夜中の見張りほど嫌なものはない、マフラーに顔半分を埋める。
静かに降り積もる雪をただ見ていた。
見ているだけで、こちらの心も白く冷たくなっていくような感覚に吸い込まれ、目を閉じる。
感覚が研ぎ澄ませれていく流れに身を任せ、己の世界に入っていくのは心地がよい。
彼女の声が聞こえる気がするのだ、自然と口元が緩む。
『大丈夫、大丈夫』
そんな声と手の感覚が偽りでも嬉しい。
俺は幾ばくかの優しい思い出に浸り、目を開いた。
「凄いよ、リュミエール。こんなにも、想うだけで胸が暖かくなれる。でも、俺は駄目だな.....まだ、君を助けられそうにない」
頬を一筋の雪が滑り落ちた。
独り言を口にして自らを嘲る、そうして俺は抜け出すことのない闇に、自らを投げ出し続けるのだろう。
俺はポケットに入っている首飾りを取り出して、左耳にあるイヤリングを触る。
首飾りはリュミエールが最後に身につけていた遺品で、俺が誕生日に贈ったものだ。
イヤリングはそのお返しにと、誕生日に贈ったものなのに何故か彼女がくれたことを思い出し、笑みがこぼれる。
イヤリングは今ではインカムとなっている。
今まさに目の前で瞬きしているような輝きだ。
俺はそれをポケットに丁寧に戻そうとした時。
「通達する、六時の方向に敵影あり!!その数.....数千、いや、一師団!!!全団員に通達する!!敵襲ー!!!」
見張り台から爆音のように警鐘が鳴ると同時に、一斉に本部建物内から人が出てきた。
「一師団だと.....そんな馬鹿な、一万以上もの、いままでそんなこと」
これからが本番だっていうのは事実なのか。
俺は首飾りを首にかけ、服の中にしまった。
壁に立てかけていた剣をとり、腰にさして走り出した。
『おにいさん、流石にこれはやばいんじゃない?』
「黙れ!そんなこと言われなくてもわかってる...!!」
俺は見張り台の階段を駆け上って、その光景をみた。
防壁から遥か彼方の乾いた大地に、空から蟻の行列のように振り続ける天使たち。
「双眼鏡かせっ!!」
俺は隅で蹲る見張りから双眼鏡を奪い取り、天使を詳しく観察する。
天使はどれも二枚一対の翼で、今のところ智天使以上のものは見られない。
その時イヤリング兼インカムから慌ただしいジェイドの声が流れ込んできた。
『ルクス!おい、見てるか!!』
「ああ見てる!!ジェイド、そっちはどうなってるんだ!」
『団内はそりゃ、しっちゃかめっちゃかさ!!一師団責めてくりゃ、そりゃ混乱したくなる!!』
「騎士長からは!?」
『俺達仮面は前線だとよ!!防壁到着予測時間は残り三十分、あと十五分で支度して迎撃!!』
「了解」
俺はジェイドとの通信をきり、騎士長へと繋ぐ。
「こちらルクス。現在目視で敵影確認、通達通りおよそ一師団、防壁へと進行中。北方見張り台にて待機、迎撃可能です」
『了解。今すぐ迎撃できる者は他にいないのか』
「こちらジェイド現在ルクスと合流試みている!!北西の防壁を走行中!!到着予測時間はあと二分!!その後迎撃可能です!」
『では合流でき次第迎撃せよ』
「了解」
俺は双眼鏡を捨て、腰の剣の柄に触れた。
今回ばかりは勿体ぶっている場合ではない。
俺は一際大きく深呼吸をした。
『僕の本気、受け入れるつもり?』
「ああ」
『初めての時はだいぶおにいさん壊れちゃったけど』
「黙って働け」
俺は剣を抜き取り見張り台の壁縁に片足をかけた、真下は少なくとも落下したら助かる確率は低いほどは高いであろう。
隠していた仮面を顔に取り付ける。
仮面にあいつの力がじわじわと染み込んでいく感覚に浸る。
「ルクスっ!!!いくぞ!!」
階段を上がってきたジェイドが後ろで叫ぶ。
「了解。迎撃を開始する」
俺は背後のジェイドを振り返ることなく、かけていた片足を蹴った。
そのまま身を任せ自由落下していく。
後ろからはそれに続くジェイドの声がしっかりと聞き取れた。
力の発動の条件は揃った、あとは俺がその名を呼び、奴の名を縛り、確実に引き出す。
俺がこいつにどれだけ耐えられるかの勝負だ。
「叫べ、『レヴィアタン』!!!!」
『そんなに情熱的に呼ばれたら、少しだけ本気だしちゃおうかなあ』
足が地面に触れた瞬間、水が俺のあたりを囲いこんだ。
そうして着地の衝撃は吸収され、俺はなんとか降り立つことができた。
大きく一歩を踏み出す、体は人間のスピードとは言えない速さで地面を蹴った。
『僕の力は身体強化、だけどさ。おにいさんこのまま耐えられるかなあ〜』
「当たり前だ」
天使と接触まで残りニkm、俺は剣を下段に構えた。
不意打ちに等しいほど、目の目にきた天使の首を切り落とした。
そうして戦いの火蓋は切って落とされる。
周囲の天使たちの首を落とし、腕をきり、心臓をつき、目を貫く。
だがそれはこちらも同じ、ジェイドがいるとはいえ無双状態で敵しかいない。
雨のように振り続ける、斬撃と銃弾を避け続けるのも無理がある。
「ジェイド!」
「ああ!!」
俺達は背中を預け、剣を構えた。
「なるべく連携して、着実に数を減らすぞ」
「俺もそう思ってたぜルクス。でも、流石にこりゃ多すぎじゃねえか」
周囲は馬鹿みたいに天使しかいなくて笑えてくる。
「はっ、神様は厳しいなあ」
体内を熱い血液が巡る感覚がわかる。
今にも逃げ場を求めて外に溢れ出そうだ。
滴る汗が乾いた大地に跡を残した。
『こちら本部。ただいま二人の交戦開始を確認した。現在十人の仮面がそちらに向かっている』
「了解、到着まで持ちこたえる」
「本部も手厳しいねえ」
俺達迫り来る天使の軍団に応戦しながら会話をする。
余裕があるぐらいが丁度いいのだ。
薙ぎ払いを避け、心臓に剣を突き立てた。
血飛沫が顔面を濡らし、思わず目を瞑る。
「人間、風情が.....」
「貴様等が始めた戦だろうが」
「違うね、最初に始めたのは貴様等人間だ」
「.....なんだと?」
「貴様等は自らの手で首を締めているのだ!哀れだ!!実に滑稽だ!!!貴様等を断罪するのは我々ではない貴様等だ!!」
俺はそう豪語する天使に剣をより深くめり込ませ、そうして抜き取る。
乾いた大地に広がる血溜まりにパシャリと足を突っ込んだ。
ジェイドが背後で中々苦戦しているようなため、そちらに駆けつけ連携をとる。
敵がジェイドの横払いで体制を崩したのを見計らい、間髪入れずに首をはねた。
だがそれはこちらも隙を生んでいたらしく、潜んでいた敵の槍の一突きが横腹を軽く抉った。
『応援部隊そちらに向かっています!!耐えてください!』
「っ了解....!!」
「ルクス!」
「問題ない集中しろ!!!」
俺はジェイドも己にも、一喝するつもりで叫んだ。
今ここでやつは俺を助けると二人とも隙が生まれる、俺は今ここで立て直し反撃しないと死ぬ。
そう、戦場とは生きるか死ぬかだ。
「はあああああああっ!!!!」
俺は維持でも倒れそうになるのを踏ん張り、剣を相手の脳髄に突き刺した。
矢が腕に刺さるが殺すことが先だ、俺は体重をかけてより深く突き刺す。
「ルクスすまん!そっちに二人零した!!」
「......っふざけんな、しっかり、仕事しろ!!」
俺はすぐに切り替え、天使の体を突き飛ばして、剣を抜き取る。
かなり天使の数は減らしたつもりだが、一向に相手の勢いが弱まる気配はなく、防壁へと着々と進軍している。
あいつのお零れを処理し終わった頃にはもう限界に来ていた。
体力的にではない、身体的に耐えられないのだ、汗が止まらない、鼓動は五月蝿い。
「ルクス!大丈夫か?」
「お前こそ」
「俺は大丈夫じゃないな.....片腕やられたし、体力もそろそろキツい」
そう言った片腕は確かに力無く項垂れている。
絶望的だ。
一師団の戦力をたった数百人で防げと、そんなの無理だ。
だが今に始まった事ではない、こんなの戦争が始まった時から絶望的な状況だったではないか、圧倒的不利、個々の戦力差、能力の違い、その全てが絶望的でどれも人間が勝るものなどなかった。
そう、俺達人間は抵抗をし始めてしまったこと自体それが、敗北を決定的にしたのだから。
そんなことに気づいてしまって、俺は剣を握る力を緩めた、思わず下を向いた。
「無理だジェイド.....これは負け戦だ」
「ルクス....」
「人間の勝率は絶望的だ」
「諦めるか?ここで死ぬか」
そのジェイドの、いつもらしからぬ声の調子に気がつかされる。
そうだ、こんな大事なことを二の次にしていたなんて。
「だが、それは、俺の復讐には、全く関係ない」
俺は剣をもう一度強く握りしめる、諦められるか、諦めてたまるか、我が怨念、我が憎悪、我が復讐、一度諦めそうになった己が恨めしい。
こんなにも今でも燃えているというのに。
刹那、天使達が一斉に動きを止めた。
そうして、皆空を見上げる。
ザワザワとどよめき、慌て始め、ある者は泣く者すらいた。
空には一縷の雷が騒いでるだけだ、それでも天使達はそれを見て騒ぎ立てるのだ。
『ああ.....これは』
胸がざわついた、いや悪魔が歓喜している。
涙を流し、今にも俺から出ていく勢いを必死に押さえつける。
そして、雷は落ちた。
距離は遥か遠く離れているその場所に、一人の白銀の鎧が片膝をつけて頭を下げている。
それはそのまま翼を大きく広げた、それは美しく光り輝いていた四枚二対で、俺は目を奪われた。
だがいつまでもそのままで居てくれる訳は無い、立ち上がり、一歩を踏み出した。
「全隊員任務変更!!標的は『銀狼』、殺す気は起こすな!奴を退けろ!!」
天使達は雄叫びを上げ、武器を手に防壁とは反対方向に走り出した。
俺達など視界にも入らない。
仲間のはずだろう『銀狼』は、何故天使達に襲われているのか。
この八年間をひっくり返す出来事が起きている。
それでも鎧は一歩一歩地を踏みしめて悠々と歩く姿は実に美しい。
『覚えているともああ勿論だ』
心臓が強く握り締められるような感覚に思わず剣を落とした。
膝から崩れ、何とか片手を地面につける。
それでも俺は目の前の光景から目を離さなかった。
そうしてまた一歩踏み出したと思った、だがそこにはいなかった。
どこだ、初動もなくこんなに華麗に消えるものか。
方々を見回す、何処にもいない、代わりに天使達が血飛沫と悲鳴をあげて倒れていく。
その数はすでに俺が殺した数を上回っていた。
こうも簡単に命が刈り取られるのか、雑草を抜くように、死体の山が出来上がっていく。
なんだこれは、これが命ある者のやることか。
俺はすぐに震える手でイヤリングに触れる。
「こちらルクス......本部、応答せよ」
『こちら本部、応援部隊到着はまだ...』
「応援部隊を直ちに帰還、防壁の守備へ戦力を回せ。それから国民の避難を同時に進行せよ」
『な、何を.....ルクスそれはお前ら、自殺行為だ!』
それだけ伝えると通信を切る。
この状況に仲間を放り込んではいけない、ここは既に死神に見据えられた戦場だ。
白銀の鎧は悲鳴の渦の中心で躊躇いなく命を散らしていく。
そうして遂には、残りわずかとなったそこで動きを止めた。
もはや血に濡れ、白銀とは言えないそれがピタリと止まった。
ようやく視認できた得物は刀であった。
「私を『銀狼』と呼ぶことを許そう。私を化け物と罵ることを許そう。私を殺すことしかできないあやつり人形と使うことを許そう。私をもう一度、『罪』と認め、断罪することを許そう」
天使達は奴が動きを止めたことをいいように、翼を広げて一目散に逃げていく。
「私がもう一度、この私として、降り立つことをどうか許して欲しい。我が主、我が兄、我が忠臣、そして亡き我がたった一人の友」
そいつは祈るように胸に手を当てて、刀を掲げた。
先程話していた雰囲気とは全くの別人のように一変して。
「去るもの構わず、だが死をもって地に堕ちろ外道共!!八年間の我が主の積年の屈辱と我が怨念を、受けるがいい!!!」
奴は大声でそう叫ぶと逃げ惑う天使達に雷を落とした。
雨のように落ちる死体は地面を血の海にした。
この戦場に生きている者はいなくなった。
奴は変わらず屍の山に君臨している。
たった数分で、一師団を殲滅した。
目の前の光景を見て、ジェイドは耐えられなかったのだろう、隣で嘔吐した。
俺は手の震えが止まらなかった
そして奴はこちらを見据えた、しっかりと。
鎧の奥の瞳が俺達を写している。
「走れジェイド.....」
「無理だ、あんなの、だってこいつ」
「ボサっとしてんな!!逃げろ!!」
「その心配はない」
息が止まった。
降り続く雪だけが今動いている。
いつの間にいたのだろう、すでに目の前にいた。
刀から滴る血が死を宣告しているようだった。
「お前ら人間の敵ではない」
そして刀の血を払い、鞘に収めた。
「お前、中にあいつがいるな」
「は.....?」
「隠れてないで出てこいレヴィ」
ずるりと胸から魂が出ていくような、そんな気持ち悪い感覚が襲う。
すると目の前にいつも夢に出てくるあの悪魔が立っていた。
「アモル.....覚えていてくれたの....」
「.....残念だが、それは私じゃない。私じゃない誰かの魂が、お前に言っている」
「なんて....?」
「『あの時は、ごめんなさい』、と」
「そう.....そっか.....僕は、守れたのか。彼女の、意志を......でも君の命も、守りたかったなあ」
意味のわからない会話が目の前で繰り広げられている。
そして悪魔は涙を零していた。
鎧は悪魔との会話を一度切り、俺達を見た。
胸に手をあてる、すると驚くことに鎧は硝子のごとく弾け消えた。
鎧の下は、少女であった。
銀髪の美しい赤目の少女がそこに立っていた。
「私はアモル=テラス。我が主、レイト次期王の命令により、人間の増援にきた」
そして可愛らしく一礼をして、小さく微笑んだ。