失楽園 第一章 第三節

「ねえ、覚えてる?」

青いドレスがゆらゆらと誘っている。

ベージュのカーテンの中にいる少女の顔は絶妙に見えない。

「この部屋」

少女の口が何やら言葉を続けたらしいが全く聞こえなかった。

俺はもどかしくなり一歩踏み出す。

そうして静かに首は落ちた、何もなく、ただ落ちた。

転がり、周り、俺の足元で、彼女の顔が。

 

 

 

 

「はあ.....っぁは....は...........はぁ...うぐ」

滴る汗が拳に落ちた、どうやら相当魘されたと見える。

冬の空気の冷たさが肌を震わせた、部屋はすっかり暗く影が落ちている。

辺りを見舞わす、植木鉢、暖炉、なるほどここは自分の部屋だ。

「起きたか、ルクス」

「騎士長....」

「何を伏せることがあるのだ」

部屋に入ってきた人物を見ては直ぐに目を逸らした。

顔に刀傷が数箇所ある俺の憧れの人だ。

「目の前の敵には指ですら触れられなかったのです....。生きていることに悲観はしていません、ただ.....」

「相変わらずお前は真面目で堅い」

そう言って騎士長は俺の頭に手を置いた。

数回頭を手が跳ねる、そうして騎士長はベッド脇の椅子に腰掛けた。

「お前が来てから八年、戦争も始まって八年、そしてこの戦争が動き出したのも八年か....因果を感じぜらる負えないな」

「騎士長、俺が交戦した天使の情報を」

「ああ、その為にお前は生き残った、話せ」

「はい。奴は確実に最上位の天使です、自らミカエルと名乗ったので間違いはないかと思います」

「ミカエル.....天使の中で最強の神性を持つ天使の長か」

「それに上位階級第二位智天使ケルビムの出現も確認されたと聞いています」

「それはこちらも確認済みだ、そして我らの調査によって詳しい情報を得られた」

「機密事項でなければ教えていただきたい」

「勿論だ、お前も一度は聞いたことはあるだろう。智天使の正体は、かの有名な『銀狼』だ」

「なっ.....『銀狼』....今は亡きかの大帝国をたった一人で戦争に挑み五師団を殲滅し大帝国を陥落させたと言われる人類史最凶の殺人鬼.....」

「そう、そして一度は世界を救った英雄の一人。武術の達人にして刀の使い手、その太刀筋は美しく滑るようで華麗、見とれる間に死ぬという」

熾天使以上の実力.....ですが、『銀狼』ともなれば多くの情報があると思います。対策会議の予定は?」

「丁度明日の早朝に予定している」

「騎士長、自分にもその会議の出席許可を」

「.....良いだろう」

「ありがとうございます」

一通り話終わり騎士長は一息吐こうと紅茶を入れてくれた。

ティーカップから漂う落ち着いた匂いが、生きて帰ってきたのだという実感を深めた。

彼は暖炉に薪をくべた、ぱちぱちと燃える音が心地よい。

騎士長は再び椅子に座るかと思ったが、俺から視線を外さない。

「ルクス、お前は.....」

そう口を開いた彼は一度閉じた、何かを咀嚼し、躊躇っている。

「....これから戦争は激化していくだろう、それでもお前は『戦士』として死ぬを誉れとするか。今ならまだ普通の少年のように、誰も責めはしないだろう」

騎士長の揺れる瞳は、美しい青だ。

そうだった、彼はどうしようもなく優しい心の持ち主なのだった。

その目からは、俺にもう「悪魔憑き」として戦場にたって欲しくないのだろうことが安易に汲み取れた。

「愚問ですよ騎士長、俺は貴方に拾って頂いたあの瞬間から、いえ、我が故郷が天に滅ぼされた時から心は決まっているのですから」

「そうか…もう八年か」

「はい、八年前帝国の隣国であった我が故郷の王国がこの戦争の見せしめのように、初めての戦場とかし滅びました。自分は王国の王子でした、それが幸いしたがために一人生き残ってしまった自分に貴方は道を示してくれた」

「だが、我が騎士団は天使と対抗するための力を得るために禁忌に手を出した。悪魔と契約することで同等の力を得るために。そして世界のためではなく、己の帝国を守るがため身勝手に。いずれ我らは報いを受けるだろう、それをお前に背負わしたくはないのだ」

「はは、騎士長。俺は契約していようがいまいが、いずれ己の憎悪によって身を焦がすでしょう。あいつらだけは」

そう、彼女の全てを奪っていった、憎き創造主だけは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

八年前

「ルクス様」

「.......ああ、リュミエール

「お茶をお持ちしました」

「ありがとう......」

「ふふ」

俺は何故笑われたのかわからず、自然とムッとした顔で彼女をみた。

「.....なんだよ」

「いえ、本当にルクス様は勤勉で真面目ですね」

「嫌味かリュミエール....」

彼女は暖かな冬の陽光に包まれた部屋の揺り椅子に腰掛けた。

ふわりと青いドレスは揺れ、白い足首が晒せれる。

「兄様達は剣術に夢中だ。俺は兄弟で一番の末っ子だからな、剣術の師匠を譲ってくれないし、こうして自分で学べるのは学だけだ」

「ですがそれでも最も優れた剣士は貴方様だと父君が仰っていましたではありませんか」

「どうだかな....あと、リュミエールその口調、どうした、本当に姫君みたいだぞ」

俺はいれてくれた紅茶を口に運ぶ、ダージリンのいい香りが鼻をくすぐった。

リュミエールはクスリと笑う、それは悪戯に成功した顔だ。

「もうすぐ十六歳、成人した日に私達は籍を入れるのです。その時王国の領地の一角を所領として貴方が治めるのだから、その威厳を私が損なわないようにと練習していたのですよルクス」

「....お前はそのままでも充分姫様だがな」

「あら、これでも巫女の姫様ですものね」

そうして二人で笑った。

 

 

彼女との出会いはそれは小さな時に、王宮の片隅で出会った。

彼女は代々我が王家に使える巫女の一族で天に祈りを捧げることで力を得るのだという。

それは輝かしいだろう、だが彼女は泣いていた。

部屋の隅で蹲っていた、目は泣いて真っ赤に腫れ、綺麗な黒い髪はぐしゃぐしゃだった。

彼女に問うた、何故泣いているのか。

姉様たちに意地悪をされたのだと、見れば髪だけでない、ドレスもボロボロだ。

これではルクス様に会えない、そうとも言った。

彼女は顔をあげることなく、背を向けてただ泣いていた。

それは自分も同じ境遇だった、先程自分も兄様達に勉学の本をボロボロにされた、だからいつものこの場所で落ち着こうかと思っていたら先客がいたのだ。

「名前を聞いても?」

リュミエール

リュミエール、君が言うルクス様は、その、きっとこんな君でも大丈夫、会ってくれるさ」

そう言って俺は彼女と同じ視線まで腰を下ろした。

「君はきっと、誰よりも心の美しく優しい人になる.......と思う」

この言葉が彼女を振り向かせた。

俺はその時みた、彼女の瞳の色に恋をした。

 

 

俺は本を閉じる、今日は確か父上に隣国の帝国が謁見に来るため同席しなければならなかったはずだ。

リュミエール、そろそろ時間だから離宮を出ないと....」

俺はこれから知る、絶望と憎悪に身を焦がす出来事が今迫っていることに。

今日この瞬間、彼女の運命が狂ったのだ。

その時、大きな地鳴りと、窓の外から見える街から爆煙が上がるのが見えた。

そしてそれを元に次々と爆発が起こる。

「な、何事です!?」

リュミエール、『祝福』を頼む!!」

俺は部屋の済に立てかけてあった、成人する祝いにと貰った剣を手に取った。

「は、はい」

彼女は俺の足元で膝をつき、祈るように手を合わせた。

聖なるかな聖なるかな。主よこの者に祝福を与え給え』

彼女は神に祈ることで聖なる力を得られる、それで彼女は戦うのだ、祈る神によって祝福には違いが生じる、例えば天空神ゼウスからは雷の力が、太陽神アポロンに祈れば炎の力が得られる。

その聖なる力を他人に付与することも可能なのだそうだ。

『天上の神々よ、この者に祝福を』

彼女は最後の祝詞を口にしてからは微動だにせず、眉を寄せていた。

リュミエール....?」

「.....声が、聞こえ....ない...聞こえないの.....神々の声が聞こえない.....」

「は、はあ?」

その時、爆風が窓を襲った。

割れた窓ガラスが彼女を襲いかかる、それを俺は覆いかぶさって守った。

いくつかの破片が背中に突き刺さり思わず顔を歪ませた、だが彼女にはバレずにすんだらしい。

「.......とりあえず、ここは移動しよう。父上たちが心配だ」

「....そうね....離宮をでましょう。情報を得なきゃ」

「ああ、俺から離れるなよ」

俺はリュミエールの手をしっかりと握った。

その手は震えていて弱々しかった、俺はしっかりと、こぼれないように。

ゆっくりと部屋の扉を開けた。

そこは血に塗れていた、もはや原型をとどめぬ人であったものがゴロゴロ転がっている。

そこには兄様であったものも無残に転がっていた、リュミエールの姉たちも。

俺達はなるべく下を見ないように歩き、王宮に繋がる廊下で一度足を止めた。

「ルクス....」

「なんだ?」

「こんなの....人間の所業じゃないわ...こんな...人を人とは思わぬ殺し方....酷いわ...」

「そう....だな......」

その時王座の方で爆音が聞こえた。

俺達は顔を見合わせると走り出した、一心不乱になって辿り着いた時にはそこはまさに地獄であった。

王座は壁ごと破壊されて外の街の情景が丸見えだ。

俺はゆっくり床についた血の跡を目で追っかける、その先にあるものは。

父上が、天井に吊るされていた。

首は薄皮一枚で漸く繋がっている、今にも引きちぎれそうだ、胸には大穴が穿たれていてそれはまさに人の所業ではない。

俺は漏れる嗚咽を手で押さえつけた、零れそうになる涙に目を見開く。

「そ、んな.....父、上......」

「陛下.....酷い、こんなの....」

刹那、外で眩い光の柱が時計塔を照らしたのが見えた。

俺はこれ以上何が起こるのだと思い、走ってむき出しの外壁まで近づいた。

外には天使たちが空を埋めつくしていた、夕方に飛び回る鳥のようであった。

「聞け!!!人間達よ!!!!!」

すると時計塔の上に居座っている何かが叫んだ。

「刮目せよ!!貴様等は道を誤った!!!神々の恩恵は消え去った!!神罰が下った!!!!」

そうして高々と腰の剣を抜き、天に掲げた。

「我が名はヒュペリオン!!!天は人間という種を排他することに決定した!!!これは宣戦布告である、いや死刑宣告である!!!!」

その言葉で天使たちは血気盛んに飛び回り、雄叫びをあげ、矢を放ち、歓喜していた。

「人間達よ、刮目せよ。貴様等の死を、圧倒的なまでの殺戮の嵐を、最後まで無様に足掻くがいい。ゼウスの愛し子達」

そうして街は戦火に飲み込まれた、これを地獄と言わず何という。

止まない叫び声に振り続ける血飛沫、絶えない剣戟の音、銃声、爆音。

「逃げるぞ、リュミエール

「ルクス!!ここで民を捨てるのですか!?立ち向かいましょう、これは何かの間違いです、ゼウス様は人間を愛していらっしゃいます!」

「ならばこれを早く止めてくれるだろう!?」

「.....それ、は....」

「ごめん.....言いすぎた。とりあえず、隣の帝国に逃げよう、あそこの騎士団の長には世話になったことがあるからきっと話を聞いてくれるはずだ」

そういって俺達は民を捨てた。

きっとどうにかなると歩き出した。

それは長い時間歩いて築けば街ぼ外に出ていた、どうやって来たかは定かではない。

「これは、随分舐められたものだ」

その一言でハッと我に帰った、目の前はすでに天使達に囲まれていた。

「人間二人が、堂々と外を歩いてやがる」

天使たちからはどっと笑いが起こり、各々武器を手にとった。

「走るぞリュミエールっ!!!!」

「はいっ!」

俺は彼女の手を左手で握って、右手の剣で敵を斬り払った。

軽々とよけられたものの、できた隙間に滑り込み走り出した。

「逃がすな殺せぇ!!!」

目の前の国境沿いの森に飛び込み、道無き道を走り抜ける、聞こえる罵声と笑い声を頼りに逃げ回った。

もはや自分たちが何処にいるかもわからない、だがそんなこと考える余裕もない。

いつしか雨が降り始め、足元はぬかるみ、バシャバシャと泥が飛び散る。

「はあっはっ....ぁっ....はっ....!!」

「はっ、ぁ、はぁ、っ、きゃあっ!!」

「っリュミエール!!」

そんな時リュミエールは足を滑らせ、俺の手から滑り落ちた。

足を止め、すぐさま駆けつけた。

「あっはあ、っは........大丈夫かリュミエールっ」

「.....ルクス、私を置いて、お逃げなさい」

「!?何馬鹿なことを言ってんだっ!!大丈夫だ、もうすぐ国境にはいる、だから....!」

「いいえ、きっと私は貴方の足で纏いになります、私もあとでちゃんと追いかけますから」

「大丈夫だ!!しっかり守っていける、俺はお前を守るその為に今まで剣を握ってきたんだ!!」

「お願い、ルクス....」

「っ!!嫌だ!!俺は、お前と生きたい!!!俺はお前と居なきゃ、一緒に歩かなきゃ、笑わなきゃ、とてもじゃないが、生きられない....!!」

「ルクス、それは私もよ」

「なら二人で行こうっそんなこと言わないでくれ!!!」

俺は子供のように喚いた、膝を地につけ、彼女の泥だらけの手をとった。

折角の綺麗な青いドレスは台無しだ、彼女の艶やかな黒い髪に、宝石のような瞳にとても似合っていたのに。

それなのに。

目の前で彼女の命が弾ける音が聞こえた。

「ル、クス」

「人間風情が走り回りやがって....」

周囲には天使たちが武器を手に立っていた。

俺はそれをただ呆然と見るしかできなかった。

だって、もう理由がない。

『光、よ』

目の前は光で覆われ、俺も逝くのだと思って目をつぶった。

彼女との思い出を思い出しながら逝けば怖くはない、彼女と死ねるなら本望だ。

「ルクス」

「......リュミエール....?」

「ごめんなさい....先に逝く私を、どうか憎んで」

彼女の冷たい手が俺の頬を撫で、血の跡を作った。

「私は貴方を、立派な王にする為に、貴方の巫女になったのに、気づいたら恋に落ちてた」

頬を滑るように髪を撫で、頭を撫でた。

「でも....ダメね.....私.....」

そうして力無く落ちた手は俺の膝の上に。

「っ.....」

彼女を見ていたい、触りたい、なのに涙が溢れて止まらない。

「貴方に、まだ、言えてないことがあるのに」

リュミエール....リュミ...」

その時、冷たいものが唇に触れた、言葉は紡ぐめず、嗚咽もでない。

そうして離れた顔には笑顔が溢れていた。

『かの、者に....、祝福を、我が、しゅ、くふ...く、を........』

そういって最後の力を振り絞るように伸ばした手は俺の胸に止まった。

「あい、してる」

「っリュミエール!!!」

俺は手取ろうとしたものの光が俺の邪魔をする。

「しにたくない」

彼女はその言葉を笑顔で、掠れる声で囁いた。

それが彼女の最後の言葉だった。

 

周りを覆っていた光は消え失せ、雨が俺を打ち付けるばかりであった。

先程まで居たはずの彼女は何処にもいなかった、代わりに光が浮かんでいて、ふよふよとまっすぐ俺の胸の中に入って消えた。

そうして一枚の花びらが俺の膝に舞い落ちる。

リュミエールはこの世からいなくなった、骨の一つも残すことなく、元々存在していなかったように跡形もなく。

彼女は最後に死にたくないと言った、彼女は死にたくなかったのだ、それは怖かっただろう、嫌だっただろう、悔しかっただろう、痛かっただろう、生きたかっただろう。

きっとやりたいこともあった、夢もあった、未来があった。

彼女の手は震えていた、怖かったのに置いていけといった、死にたくなかったのに覚悟を決めた。

こいつ等が、こいつ等がこいつ等がこいつ等がこいつ等がこいつ等が。

リュミエールの人生を、奪った。

「お前らがあああああああああああああああああああああああああッッッッッ!!!!!」

俺は今にも切りかかる直前の天使の心臓に剣を突き刺した。

溢れ出た血飛沫が俺の顔全面を塗らす。

左目に入った返り血が使い物にならなくさせたが、関係ない。

剣を抜き取り、振り回し、隣の奴の腕を切り落とす。

そしてもがき苦しむそいつの眉間に剣を突き立てる。

背後から切りつけられる、だが。

リュミエールは、もっと痛かった」

俺は剣を背後の奴に投げつけた。

地面で苦しむ奴に馬乗りになり、殴り続けた。

「殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!殺す!」

「あっがっやめ、たすけ、ぐあっ」

「もっと痛かった苦しかった怖かった叫びたかった生きたかった助けを乞うても殺した癖に!!お前なんかより、リュミエールはもっと生きたかったッ!!!!!だから死ね!!!苦しんで死ね!!もがいて死ね!!!自分を呪って死ね!!!」

俺は殴り続けた、拳から血が出ても、奴が動かなくなっても、ぐちゃぐちゃになっても殴り続けた。

「はあ......はあ.......は.......」

それは春の先の、俺の憎悪の始まりだった。